小林虎三郎の墓(興国寺・千手2)
明治10年(1877)8月24日に亡くなった小林虎三郎は、はじめ上野の谷中墓地に葬られました。その後、昭和34年(1959)8月に小林家の菩提寺だった興国寺住職の中村良辨が、郷土長岡でその遺徳を偲ぶため、虎三郎と弟の雄七郎の遺骨をここに移しました。
昌福寺(四郎丸4)
国漢学校は最初、戊辰戦争のときに藩の病院として使われ、焼け残った四郎丸村の昌福寺の本堂を借りて開校しました。
米百俵の碑(大手通2)
長岡藩は明治3年春から坂之上町に国漢学校の新校舎の建設を始め、6月15日に開校式が行われました。小林虎三郎没後100年をきっかけに、脈々と生き続けた米百俵の精神を思い起こし、教育尊重の市民性をさらに高め文化の香り高いまちにしようと、昭和50年(1975)に建てられたものです。
小林虎三郎の碑(蒼柴神社参道脇)
昭和4年(1929)に没後50年を記念し、旧士族の代表だった松下鉄蔵らが寄付を集め建立しました。碑文には「学校を敗残窮餓の中に興し、以て人材を養成し、長岡を今日の盛有らしむ」とあり、「食われぬから教育するのだ」という精神を伝えたいという思いがうかがえます。
米百俵の群像(千秋が原ふるさとの森)
山本有三の戯曲「米百俵」を歌舞伎座で上演したときの一場面をブロンズ像で再現したものです。平成3年10月にふるさと創生1億円事業で建立されました。「米を分けろ」と迫る人びとに虎三郎が切々と説くこのシーンは人びとの心を打ちます。
長岡市郷土史料館(悠久山公園)
市街地の東部にある悠久山公園の高台にあり、建物の姿は城を形どり、4階の展望台からは新潟平野が一望できます。館内展示では、小林虎三郎や河井継之助、山本五十六ら、近世から近代にかけて長岡の精神文化の礎を築き、日本的、世界的に活躍した郷土出身の先人たちの業績とその人となりを紹介しています。
阪之上小学校伝統館(今朝白1)
国漢学校の流れを汲む学校の中にあり、虎三郎が国漢学校で用いた教科書をはじめとした貴重な資料や、市民が提供した品々を展示しています。