(1831年~1868年)
江戸に出て蘭学、英学を学び、数学・測量・航海術を身につけた。
幕府の洋学校「藩書調所」の教授となり、数学を教えた。
晩年長岡に戻り、著作に専念した。
(1848年~1904年)
幼くして長岡の町医者宗詮の養女となる。
表町学校や自宅で裁縫を教えたが、明治22年坂之上町に私立長岡女学校を設立、生涯を女子教育のために捧げた。
(1858年~1944年)
解剖学、人類学の権威。
東大に学び、ドイツに留学し、帰国後東大教授。
アイヌの研究は高く評価されている。
母は小林虎三郎の妹、妻は森鴎外の妹。
(1854年~1938年)
長く東京盲亜学校長を務め、また長岡の有志を説いて私立長岡盲亜学校の設立に努めた。
その後文部省に対し、盲学校と聾学校の分離を進言し、その実現を早めた。
(1870年~1944年)
東京帝大を卒業し、同校政治学の初代教授となる。
昭和3年から7年間東大総長を務め、大学の自治と学問の自由を守りぬいた。
わが国における政治学の草分け。
(1852年~1936年)
実業家。
自分の尊さに気づき、他人も尊重して幸福な世界を築こうという互尊思想を唱え、互尊文庫を建設して市に寄付、また財団法人日本互尊社を設立した。