富川大塊(1799~1855)は、栃尾町私塾復礼館館主大橋白鶴の長子として生まれ、10歳の時に、富川伊右衛門利光(としみつ)の養子となりました。
富川家は代々検断職を勤めていましたが、養父伊右衛門が病弱であるため、文政2年(1819)、19歳で検断職見習となり、同6年25歳の時に、父の後を襲い検断となりました。
書は広沢(こうたく)、董其昌(とうきしょう)、趙子昂(ちょうすごう)などを学びました。天保8年(1837)に、弟の直寛(なおひろ)に検断職を譲ってからは、京都や江戸、そして長崎に遊学し、佐藤小雪、細貝栗園など当代一流の文人墨客と交わり、また良寛とも交遊が厚かったということです。
掲出の幟は大塊の晩年、50歳の時の書で、滝の下町の十二山神社に献上されたものです。すぐれた運筆の妙、そして虚飾なく、素朴さと同時に変化がみられ、まさに、書家大塊の人柄が自然に伝わってくる見事な作品です。
なお、幟(2旒とも)下方には、「世話人、若連中」として、「和泉屋角右エ門、佐渡屋民蔵、中村屋甚蔵、越路屋吉エ門」の4人の名前が書かれています。
<長岡市指定文化財>